専門医を超えて総合医へ
湘南鎌倉総合病院
鰐渕 康彦

1.血管外科における専門性とは何か?
 昨今は専門医全盛の時代である.多くの学会が専門医制度を打ち出してきたこともあって,若い人たちの専門医指向の傾向はますます高まってきている.日本血管外科学会が発足したとき,私はごく単純に,いよいよ本格的な専門学会ができるのかと思った.ところが案に相違して本学会は,「血管も扱う」消化器外科や脳外科,整形外科,そのほかの人々も広く参加する総合学会の形態をとって発足することとなった.学会が生まれれば,専門医の話題がでてくるのは自然のなりゆきである.そこで「血管外科専門医」とは,いったいどんな医者になるのかを考えてみたい.血管吻合の技術や血行再建の技術は,いまやあらゆる外科の分野で必要とされる共通の技術となってきている.肝臓移植の場合の血行再建と四肢の血行再建とでは,同じ血管吻合という技術を使うとはいってもアプローチの仕方は根本的に異なるものである.肝臓移植に血管外科専門医が必要とは必ずしもいえないであろう.大血管の手術は,腹部大動脈ぐらいまでは心臓血管外科医でもできる.PTAやステント挿入,さらにはステントグラフト内挿術などの技術も,すでに内科や放射線科の手に移りつつある.このようにみてくると,「血管外科」の専門性はいったいどこにあるのかと不安になってくる.このことは,血管外科学会が総合学会なのか専門学会なのか,その方向性がいまひとつはっきりしないという当初からの矛盾にも原因がある.あまりやる人がいない領域の専門性は濃厚であるが,誰でもやれるようになったものは,もはや専門性としては稀薄になってしまう.消去法的に考えていけば「血管外科」の専門性として最後に残るのは,結局のところ,救肢から機能の回復,そしてその長期維持,さらには血管新生など四肢の血行再建とそのほかの末梢血管の外科治療に集約されてしまうように思われる.

2.専門医は総合医より偉いのか?
 四肢の血行再建と末梢血管を扱うのが血管外科専門医だといわれると,それではあまりにも淋しいと不満を抱かれるかもしれない.「専門医」という言葉には常にある種の優越感を伴っており,総合医よりも一段格が上だとみられる傾向がある.しかし,専門医は果たして本当に偉いのだろうか.本来「専門家」というのは,あるひとつの道をその奥の奥まできわめた人という意味である.ほかのことには目もくれずにそのことだけに集中して,忍耐強くやり続けたという点だけが偉いのである.知識や技術があるということ自体はそれほど偉いわけではない.同じ土地に長く住み着いていれば,その土地の事情には詳しくなるし,土地勘があるので細い裏道までよく知っているのは当たり前のことである.馬鹿のひとつ覚えではないが,いつも同じことだけをやっていれば,ある程度以上の技術が身につくのも当然のことである.専門医は決してコスモポリタンではなく,いわば「土地の人」に過ぎない.専門医というのは,ある狭い領域の疾患だけに詳しく,それに必要な技術だけに熟練している医者ということであって,人間としてのスケールの大小や,格の上下などとは全く関係がないのである.

3.専門医と総合医のどちらを先に目指すべきか?
 この問いに対する私の答えは,「若いうちにこそまず専門医を目指せ」である.ただしここでいう総合医は,「一つの専門に偏ることなく何でも一通りの対応ができる医者」という従来の通念とは多少ニュアンスが異なる.ここでは,「人間を精妙なバランスを保ちながら生きる有機体としてとらえ,種々の観点から総合的に判断して治療することのできる医者」を指している.したがって,医学部卒業後 3~4 年,各科を満遍なく回って一通りの知識や技術を身につけたというだけでは,とても「総合医」などと呼ぶことはできない.この時点ではまだ,医者として必要最低限の基礎訓練を受けただけに過ぎない.その後どうするかという話である.専門医のほうが領域が狭いこともあって的を絞りやすく勉強もやりやすい.若いうちは好奇心が強いので興味のあることにどんどん深入りしていくことができる.なにか新しいことを知るとすぐそれを話したくなるし,議論を吹きかけたくなる.学会に出れば多くの友人もできる.そして何よりもいいのは,同じことばかりやっていても嫌になるということがない.たとえ専門馬鹿といわれようと一つの事柄に精通することは大きな自信になる.この自信を幹にして,それにどんどん枝や葉をつけていけば,何年かすればしっかりと太い幹を持った立派な樹木に育つこと,つまり「総合医」になることは十分可能である.そして本誌の読者の方々のように,すでに専門医のつもりで突っ走っている人は,ときどきふと立ち止まってみて欲しい.そのときどき,それぞれの置かれている立場から自分が今までやってきた医療を見直してみて欲しい.「人間」を診るという観点からみると,自分の知識がいかに偏ったものであるかということに気付かされるはずである.一歩離れてみてみると,自分という樹がいかに貧弱な木にしか育っていなかったかということが分かるだろう.そこで改めて自分の知識や技術の再構築を図ってほしい.もっと枝や葉を増やさなければならない.この作業は樹木にさらなる活力を与えるための剪定作業に相当する.樹木には太い幹が絶対に必要であり,それが専門性なのだといえる.なにも専門性を持たない「総合医」が果たして成立し得るかどうか,私ははなはだ疑問に思っている.われわれの目指すべきゴールは「病気を治す医者」を卒業して「人間を癒す医者」になることである.そして,世の中の人々がいま最も必要としているのも「専門医を超えた総合医」なのではないだろうか.


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